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鎌倉街道上道歩き旅その1(高崎〜丹荘)

2012年に日光街道を踏破してから早6年が経過。実は2013年に次なる「街道歩き」を実施していたのですが、そのまま放置してしまいました。。。
ほぼ記憶にないんですけど、とりあえず記録として残しておこうと思います。

日光街道の次はどこにしようかなと。五街道はいつか制覇したいと思いつつも、今回はパス。

先日(といっても6年前の話だが、、、)テレビを見ていたら、テレビ東京で鎌倉街道中道(なかつみち)を歩く企画をやってました。とりあえず、この企画に便乗しちゃおう!ということで鎌倉街道を歩くことに決定。しかしこの中道だと日光街道と少し行程がかぶってるんです。

鎌倉街道には、上道(高崎〜鎌倉)、中道(古河〜鎌倉)、下道(松戸〜鎌倉)と3つのルートがあります。松戸〜鎌倉だと、ちょっと距離が短くて物足りない。残るはひとつ上道。ということでルートも決まりました。

五街道は徳川家康が整備した江戸と各地を結ぶ主要陸上交通路ですが、鎌倉街道は何のための道かというと、、、

「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。

wikipedia参照

御家人は鎌倉幕府に仕える武士のことです。いざ鎌倉!は聞いたことあるけど、まったく馴染みはない。。。

これは「鉢の木」という能の演目がもとになっていて、ある僧が雪の日に、落ちぶれた武士、常世の家に泊まらせてもらい、貧乏ながらも最高のもてなしてくれて(暖を取るために大切にしていた盆栽を火にくべたり)、今はこんなに貧乏になってしまったけど、鎌倉に呼ばれればいつでも命がけで駆けつける準備はできていると語った。その後幕府から命令が下り、鎌倉に駆けつけたら、あの夜に泊めた僧が前執権北条時頼であった。本当にはやく駆けつけた事をたたえ恩賞を与えた。というお話。

まずは、ルート決めです。と鎌倉街道の資料を近所の図書館で探してみましたが、「鎌倉街道夢紀行 上道(かみつみち)コース」しかありませんでしたw
アマゾンで検索してみても、1978年に発売された「旧鎌倉街道 探索の旅〈上道編〉」くらいしかありません。かなりマイナーです!

なので今回は図書館にあった「鎌倉街道夢紀行 上道(かみつみち)コース」を参考にコース取りすることにしました。

本を読んでみると、鎌倉街道は日光街道と違って現存する道は少ないようです。ある程度、勘で進む必要があるとのこと。

前回の経験から一日に歩く距離はだいたい20km〜30kmが限界。それ以上歩くとダメージが大きすぎて翌日は疲労困憊でぜんぜん進めなくなります。

余裕を持って20kmで目的地を決め打ちしていこうとしたのですが、初日だけはどうもうまくいかない。日光街道は比較的線路沿いに道が続いていたこともあり、意外と楽にポイントを決められたのですが、鎌倉街道はそういうわけにはいかず10km地点で止めるか30km地点まで進むかの2択。というか1択です。さすがに10kmは短すぎ。都内から群馬県まで時間も交通費もけっこうかかるから、できるだけ時間があるときに進めておきたい。

1日約20kmで割り振るとこんな感じ。

・高崎ー丹荘:32.1km
・丹荘ー小前田:19.9km
・小前田ー武蔵嵐山:17.5km
・武蔵嵐山ー西大家:16km
・西大家ー新所沢:19.1km
・新所沢ー分倍河原:19km
・分倍河原ー南町田:22km
・南町田ー善行:23km
・善行ー鶴岡八幡宮:13km
合計距離:181.6km

9日かけて歩くルートを設定しました。
初日以外は大丈夫そう。

ということで、やっとはじまります。

2013年4月27日 高崎

2013年4月27日。ゴールデンウィークにいよいよスタートです。暑くもなく寒くもなくて歩くにはちょうどいい季節の到来。

自宅を7時に出発して、まずは今回の出発地である高崎へ移動。電車を乗り継ぎ9時20分に高崎駅到着。スタート地点に移動するだけでもたいへん。すでに2時間20分もかかりました。
日が暮れるまでに32km歩かねば。。


しかし腹が減っては、、、なのでまずは朝食を。
ガストで朝食をたっぷり食べて、、、


時刻は10時30分(朝から休みすぎw)。鎌倉街道上道のスタートはここ高崎城址。
高崎城は徳川家康の命により1597年に築城。明治6年の廃城令により破壊され、その後は陸軍の駐屯地として使用されました。
現在は高崎市役所の敷地の一角に移築復元された東門のみが残されています。


スタート直後からイマイチ道が合ってるのかわからずなのですが、とりあえず進んでみる。


野球場の脇を通り抜けて、国道17号線にあたったら左折。


最初のポイントは琴平神社。まずは旅の無事をお祈りしておきましょう。街道沿いにはけっこうな数の寺社仏閣があります。日光街道のときも、はじめの頃はかなりの頻度で寄ってたんですけど、途中からだんだんいかなくなり、最終的に1日1回行けばいいというルールになりました。というのも立ち寄る度に時間が遅くなるので、この旅でゆったり観光は不向きです。目的は歩くことなので!

琴平神社
古来、お稲荷様が祀られていたこの地に、高崎藩士寺田宗有が一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝えられる。
宗有は、文政八年(1825)没したと言うから文化年間のことと思われる。
「多中のこんぴらさま」として毎月10日の縁日は参詣者で賑わい、正月には達磨市がたつ。


秩父巡礼の道しるべ。秩父巡礼は秩父にある霊場34箇所をまわる巡礼の旅。こういうのは四国八十八箇所だけだと思っていたんですが、関東にもあるんですね。


佐野の船橋歌碑。万葉集の東歌でここで詠まれた歌が佐野の船橋。
「かみつけの佐野の船はしとりはなし、親はさくれどわはさかるがへ」
親は佐野の船橋を放して、私達の仲を裂こうとするけれど、私達は離れません。って感じでしょうか。

船橋とは、船を何艘もつなげて上に板をかけて、橋の代わりにしたものです。千葉県船橋市の名前もここから来てます。


常世神社は、上で記載した「鉢の木」の佐野源左衛門常世の屋敷跡に建てられた神社。


「鉢の木」のシーンが描かれた絵が飾ってある。普段は木の扉が閉まってます。落ちぶれたって書いてあったのに、ちょっと着物が綺麗すぎますな。


放光神社。横の道を通っただけ。こじんまりとした神社でした。


放光神社を過ぎ、しばらく歩くと上越新幹線の下を通ります。この道、交通量も多い上に急カーブで視界不良、さらに歩道がなくて超危険です。歩くときはご注意を。そして烏川超え。


上信電鉄線西山名駅近くの踏切。飛鳥時代に造られた石碑「山ノ上碑」と隣接する山ノ上古墳が近くにあったので、少しルートを外れるんですが、休憩も兼ねて行ってみることにしました。


急坂。休憩になってない。


山ノ上碑。風化から守るために建物の中に保管されています。


山ノ上碑は、放光寺の僧侶が母親のために造った墓誌(故人の略歴などを記載する石碑)だそうです。内容は家系について書かれてます。
「健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)が、斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子供の長利が母親のために記した文である。」
簡単に説明すると、母親の先祖は健守命で、父親の先祖は斯多々弥足尼。で、その子供である私が母親のためにこの石碑に書き記すよ。って書いてあります。


これは山ノ上古墳。石碑と同時代に造られたと考えられていたが、調査をすると石碑よりも古いことがわかり、放光寺の僧侶の祖父(母父)のお墓。そこに母が追葬されたとされています。


十分休んだところで修行再開。鏑川(かぶらがわ)と並行する道を歩く。歩みをすすめると前方から異臭がする。進めば進むほど臭い。。しばらく歩いて橋にかかるあたりで、20、30リットルくらい容量のある大きいビニール袋を2つ下げた自転車が何台も通り過ぎていく。異世界かな。見なかったことにします。


時刻はすでに2時をまわる。そろそろお腹が空いて限界なんだが、都心を離れるとお店が少ない上に、営業時間が短い。少し手前に焼肉&ラーメンのお店があったのですが、14時閉店。。焼肉屋さんの近くに洋菓子店「パレットの丘」があったので、とりあえず少しでもお腹にいれておこうとお菓子数点とジェラートを購入。(残念ながら2014年に閉店)


ここで痛恨のミス。T字路で道を間違える。いつもはミスってもだいたいリカバリーできるんだけど、今回は戻るしかない。。。30分くらい歩いちゃったよ。だがしかし、ドライブインを発見。ドライブイン七輿で昼食とする。


メニューの数が半端ない。壁にぎっしり。大河の撮影が近くで行われてたようで、写真もたくさん飾ってありました。宮崎あおいちゃんがいたけど、なんの番組か思い出せない。篤姫かな。


定番中の定番カレーを食す。


食堂の隣に自販機コーナーがあって、そばやうどん、ハンバーガー、トーストなどいただけるようです。こっちにすればよかったかな。ここのレストランも2015年に閉店した模様。自販機のみ稼働中。


トーストの自販機。


ハンバーガー。


道を間違えたので戻ります。T字路まで引き返し正しい道へ。少し進むと「吉良上野介陣屋跡と井戸跡」が通り沿いにあります。吉良上野介は江戸の生まれですが、ここで生まれ、井戸の水を産湯に使ったと言われています。


西上州やまびこ街道、上越自動車道を越えて南西方向へ向かう。田んぼの真ん中の道を黙々と進み、鏑川の支流の鮎川を渡る道へ。そのまま行きたいところではあるが、現代では道がないのでやむなく迂回。


迂回ポイントの近くにあった千部供養塔は、1783年の浅間山噴火で亡くなった人を供養するために1792年に建てられた供養塔。


県道13号線を越え、庚申山総合公園沿いの勾配のある道を通り抜ける。


庚申山総合公園から西に進むこと約2km。神流川に到着しました。ここは現在はかんな川水辺公園となっていますが、明治〜昭和初期には渡し船や板でできた橋があって、ここから向う岸に渡れたそうです。
ここも迂回しないと行けないんですが、残念なことに近くに橋がなく、4〜5kmも遠回りしないとならんのです。1日目の終盤にこの迂回はきっつー。


夕日が綺麗(現実逃避中)。


土師(どし)神社、国指定史跡・本郷埴輪窯跡がある道を通るが、立ち寄る元気もなく通り過ぎる。土師神社の祭神は相撲の神様・野見宿禰(のみのすくね)。野見宿禰は、天皇が崩御した際に殉死(主君、主人の後を追って自殺すること)をする風習を撤廃しようと、殉死の代わりに埴輪を埋めることを発案した人物だと言われています。埴輪を作る人を土師(はじ)といいますが、この神社は土師と書いてどしと読みます。


八高線沿いの道を北上し、やっと神流川に架かる橋にでました。神流川が埼玉県との県境になります。橋を渡りきったところで完全に日が暮れました。街灯も少なく闇です。


そんなこんなで本日の目的地丹荘駅に到着しました。


こじんまりとした無人駅。この辺でホテルを探すのは無理そうだったので高崎まで戻ります。電車は1時間1本。20時6分、丹荘駅発、20時30分、高崎駅着。1日歩いたのに24分で着いちゃう。せつなすぎる。


駅ビルに入っている田舎料理しおんで夕食。


豚丼定食。


21時30分、セントラルホテル高崎到着。ふくらはぎパンパン&股関節痛発症。やはり初日に30kmは厳しいものがありました。あとは良きタイミングで休憩ができればいいんだけど、なかなかうまくいかないんだなこれが。事前に調べちゃうのも面白みにかけるし難しいところです。明日は20km弱なので、まあ大丈夫でしょう!ということで1日目は終わり。第2話に続く!

距離:32.1キロ
歩数:55,308歩