鎌倉街道上道歩き旅その7(分倍河原〜町田)
前回の行程から4ヶ月ほど経った2014年4月12日、7日目のはじまりです。夏と冬は歩かないことにしてるので、かなり時間があいてしまいました。別に急ぐ必要もないので、こんなペースでいいんですけどね。高崎から歩き始めてここまで約123km。残りは60km。あと少しで終わる!
さて、前回の到着地点であった分倍河原駅から歩きはじめます。
分倍河原駅近くのパン屋「yukkaya」さんで朝食を購入。
オリーブ入りのフォカッチャかな?をいただきました。
陣街道の石碑
分倍河原古戦場跡。分倍河原は鎌倉時代と室町時代に2度、戦いの舞台になったところです。
鎌倉時代は幕府側の北条泰家と反幕府側の新田義貞が戦い、新田義貞の勝利。後醍醐天皇を中心に起こした元弘の乱の中の一戦。
室町時代は鎌倉公方(くぼう)側の足利成氏(しげうじ)と管領(かんれい)の上杉顕房(あきふさ)が戦った分倍河原の戦い、足利成氏の勝利。
鎌倉公方とは室町時代、関東を統治するために設置された鎌倉府のトップの役職。管領は公方を補佐する職。最初は朝廷ともうまくいっていたが、成氏の一つ前、成氏の父親持氏(もちうじ)が公方だった時代、持氏と将軍義教が対立。そのとき管領だった憲実(のりざね)があること(割愛します)をきっかけに鎌倉を去った。この行為を裏切り行為だ考えた持氏が憲実を討ち取ろうとしたところ、朝廷は管領の憲実側につき、最終的に持氏は自害することになった。公方も管領も世襲制で、持氏の跡を継いだのが成氏、憲実の跡を継いだのが憲忠。その憲忠(のりただ)を成氏が暗殺したことに端を発したのが享徳の乱。その中の一戦が分倍河原の戦いです。享徳の乱は約30年続く長い戦いとなりました。
東京都道18号府中町田線を通り京王線中河原駅付近に到着。
中河原駅を通り過ぎ18号府中町田線をさらに南下。
多摩川を越えると、府中市から多摩市へ入る。
関戸古戦場跡。分倍河原の戦いの続きです(鎌倉時代の方)。
分倍河原から敗走した北条泰家が鎌倉幕府の関所があったこの地で追ってきた新田義貞と戦った。泰家はまた負けて鎌倉へ逃げます。
時代によっては倒幕への道にも変わる鎌倉街道。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。これは平家物語の冒頭部分だけど、結局こうなっちゃうのね。
熊野神社前。
ゆるい坂をあがると多摩市役所が見えてきました。
乞田交差点あたりで左折。ここを直進するとさらに上り坂。。左折で良かった。。
都道158号線を渡る。
満開の時期を過ぎ、舞い散る桜が綺麗な乞田川も渡り
とちのき公園でランチ休憩。近くにドミノ・ピザがあったので、テイクアウトして外で食べることにしました。予想以上にうまかった。外で食べるピザ。だがしかし、残念ながら現在は閉店!最寄りは多摩ニュータウン店。ちょっと遠いかな。公園ピザおすすめだったのに。。。
ランチタイムを終え、午後の部スタート。団地エリアを越え、恵泉女学園大学の脇の道を通り抜けると小野路宿通りに出る。ここは旅籠だった建物を改修して利用している小野路宿里山交流館。記憶が定かではないんだけど、たしか野菜の直売をしてたような気がします。
この交流館の角を右折してまたまた南下します。少し進むと町田市立陸上競技場が東側に見えてきます。
小野路の一里塚
鶴見川越え
このあともけっこう歩いたんだけど、あまり写真も撮ってないしなんだろうなぁと思案してたら、じわじわ思い出してきました。ちょっと写真からだと分かりづらいんですが、町田周辺は坂が容赦ない。平面の地図ではわからない恐怖がここにはある。ということで、ぜひ歩いてみてください。ほんとにきついから。
南町田まで行く予定だったんだけど、町田でタイムアップ。坂道きっつー。ということで7日目終わり、8日目に続きます!